コラム:本の読み方・絶対に正しい情報なんて滅多にない
たこやきさんが書いていた。斎藤孝の著書で「書籍は、書かれていることを素直に受け入れましょう」という内容があったがそれは誤りだと。
私はしばらく前から本は疑って読むようになっている。「これ、ほんとか? 違うんじゃないのか?」と思いながら本を読んでいる。新聞の記事や論説ですら「違うんじゃないのか?」とか、「この著者より俺のほうがマシな事を考えているんじゃないのか」ということを思いながら読んでいる。
自然科学を勉強していて思うのは、「絶対に正しい」ということは滅多にないということ。自然科学の研究でも、実験結果ですら解釈がはいって正しいかどうか分からない。それなので自然科学の学術論文ですら、私は「これはどこまで正しいんだ?」と疑って読んでいる有様である。
学術論文ですら信用できないのである。市販の本なんて内容は眉唾である。
よく考えてみれば、UFOがどうしたとか前世がどうしたとか、どう考えてもこれは怪しいだろうという本ですら平気で本屋にはあるんだから、内容が眉唾なのはちょっと考えれば分かるようなものである。雑誌だって週刊誌の記事には適当なものが多いんじゃないのか。インターネットのコンテンツに関して「匿名で無責任でうそが多い」という意味の批判意見をちらほら見たことがあるが、私は「そんな事を言ったら本屋のオカルト本や週刊誌の記事だってインターネットに負けず劣らずにめちゃくちゃじゃないのか?」と思っている。インターネットの情報は眉唾である。だがそれをいうならば、本だって新聞だって眉唾じゃないか。ネットと同じように。
私も高校生くらいまでは本に書かれていることは正しいことじゃないかと、あまり疑わないで読んでいた。だがある程度読書を続けていれば、内容に疑問が持てることくらいは分かるんじゃないのか。そもそも本を書いている著者が私と大して変わらないただの作文好きに過ぎないと最近では思う。
「疑って本を読む」というとニュアンスが違う気がするが、私の表現では「本なんて素人と大して変わらないやつが適当に書いているんだから、そんなにまともに読むな」とでも言いたい。実際は頑張って書いている著者もいるだろうが、読み手としては適当に読んだって良いはずだ。そもそも、大多数の人はろくに本を読んでいないのだから適当でも何でも読むだけマシである。そして出来るだけたくさんの本を読もうと思ったらじっくり読むのではなく適当に読み飛ばしながら読むしかないと思っている。
私は最近たくさんやたらに数が出ている新興新書が大好きでよく読むが(ちくま新書とか、集英社新書とか、講談社現代新書とか、平凡社新書とか、幻冬舎新書とか、アスキー新書とか、ソフトバンクの新書とか…レーベルの数がわからんくらいある)、正直内容がいい加減で胡散臭いところが面白いと思っている。内容の確かさから言ったら岩波新書が一番硬くってえらそうにしているが正直興味がもてない。また、内容が硬いからといって正しいとは限らないのである。そこら辺も、いろんな本を乱読していると分かるようになる。
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- 2007/06/14
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コメント一覧
確かに…
「疑う」というと、ニュアンスとして微妙とは思ったんですけどね。と言って、他に適切な言葉があるかというと、ちょっとそれも見つからないもので…(「真に受けない」「確認しながら読む」という辺りも思ったものの、ちょっとずつ違う気がしたので)
正直、齋藤氏の言葉に関しては「誤り」というよりも、「不可能」だと思うんです。記事のほうで書いたように、素直に受け入れていても、対立する意見にぶつかれば、そこで矛盾が生じてしまいますからね。
そこが全く考慮されていない辺りに、どうしても不信感が出てしまった…というのが、あの記事を書いたきっかけですね。
…で、書いているうちに、話がどんどんずれていって、あんな文章になってしまいました(笑)
たこやきさん
> 「疑う」というと、ニュアンスとして微妙とは思ったんですけどね
おっしゃりたいことは分かるつもりです。というか、疑って読んでいる人にとっては自明のことだと思うのですが、その感覚がつかめていない人に、この本を疑って読むということをうまく説明するのは難しいことだと思います。
斉藤氏は、考え方が独特だなーとは思います。基本的に楽観主義的な考えなのかなとは思いますが、とてもユニークな考えなので、すとんと共感するのは難しい意見かと思います。