お金の価値が高すぎる・新聞はプロパガンダ・読書もプロパガンダ
お金があることは重要であるとは思う。それにしても、お金があるかどうかがこの世界で不必要に価値がありすぎると感じられてならない。
金をたくさん稼ぐことはそれなりに重要だが、給料が少なくとも価値がある仕事はあるはずだし、金を稼がずとも価値があることをやっているとするならば、それは評価に値するべきだと思う。
世の中の評価基準のなかで「お金」での評価があまりにも多すぎるんじゃないかと感じてそれが不満だ。
管理人としては、「お金がたくさんあればよい」と単純には思えない。
子供のときは「マンガとゲームが好きなだけ買えるようになったら幸せになれるだろう」と思っていた。大学生になるあたりから、経済的にはマンガとゲームは事実上「欲しいだけかえる」状態になった。だがそうなったら、マンガやゲームへの興味がなくなってきてしまったという話は昔書いたと思う。
現在ではかろうじて活字の本や新聞・雑誌・アニメ・F1なんかに興味があり、それらを買ったりCS放送で見るだけのお金がある。そしてそれなりにご飯を食べて生活しているのであり、最も重要なのは、一番やりたい勉強ができるのである。
そうだとしたら、もはやこれ以上のお金は要らないんじゃないかと、私はふっと思うのである。
お金とは何か考えると、買いたいものを買うためのものじゃないかと私は思っているが(経済学とかではもっとお金にはいろいろな役割があるだろうことは想像しているが)、現時点で事実上買いたいと思うものを全部買えているのだから(逆に言えば買えないような高額なものへの欲求が無い)、だったら別にこれ以上金が欲しいとか、思う必要は無いよなと、そう思うようになった。
アニメとかマンガのように安くて面白いことに熱中していればそんなにむちゃくちゃたくさんのお金は必要ないのである。
新聞の話
高校のときの知り合いが新聞の話をしていた。いわく、「新聞を読め、と中学や高校で先生が言っているのは嘘だ」という話だった。
新聞が取り上げるのは限定された、恣意的な情報で、新聞を読めば世界のすべてが分かるわけではない。そういうことを彼はいいたいのだと私は解釈した。
私もおおむね同感だ。中学や高校では、学校の先生が「新聞を読むのは良いことだ」といっていたが、それは根拠の無いプロパガンダではないかとは思う。
私は個人的に新聞が大好きで、趣味で新聞をかなりたくさん読んでいるが(大体毎日読む、余裕があったら図書館で5紙くらい読んじゃう)、たくさん読むようになって初めて新聞の限界を感じるようになった。
新聞が取り上げる情報は限られていて、新聞社が選んだものでしかない。新聞には載っていないが重要だというニュースはたくさんある。それはインターネットに触れることで分かる。
「こんなに重要な問題がなぜ新聞では論じられていないんだ?」という不満をもったことはしばしばである。
そうである以上、新聞に過度な期待をする必要は無い、という意見は正しいと思う。
しかし、私は新聞が好きだ。過度な期待はしないが、娯楽の延長線上として、世の中を考えるツールとして、新聞を適当にちまちま読むこと自体は悪くはないと、新聞好きとしては主張したい。
新聞を読めという意見がプロパガンダで根拠がないとしたら、中学・高校で先生が言っていた「読書をしろ」というのも根拠のない嘘じゃないかという疑問を私は感じる。本以外でも、ウェブやテレビでも、うまくやれば、情報源としては使えるんじゃないかと思う。
自然科学の研究では学術雑誌の論文が一番重要で、出版された「本」がほとんどまったく重視されていないという話は前に書いたと思う。事実、本を読んでいない人は私の周りでもたくさんいるし、それが別に悪いことでもないと思うし、実は読書というのも、学校の教員が主張するほどには「良い」ことではないのかもしれない。そういうことを思う。
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- 2007/12/30
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コメント一覧
今回はコミケでの出版は無いんですよね。
今日、やっと仕事が終わったので明日くらいはネットの知り合いとお話したいと思うのですが、
拠り所がないのでドコに行けば良いかと。。。。。。
明日はどうするか。。。。
みとみーさん
中谷です。明日は午後に私はコミケに行きます。もしよろしければ、お話できないですかね。明日の10時くらいに最終チェックをするので、もしお会いできそうならば、なんか、連絡いただけないでしょうか。ここのメールフォームになんか、携帯電話のメルアドを教えていただければ、落ち合えると思います。なんだったら、たこやきさんも召還しましょう。どうでしょうか。
少なくとも…
私はOKです。
本日は、お疲れ様でした。
楽しかったです。