「将来」なんて考えたくはない・高校の物理部の続きをしているだけ
私は基本的に未来については考えたくはない。考えてもよいことがとても浮かばないし、そもそも現状が不透明なので未来を考える余裕がないというのが、正直なところ。
高校や、あるいは学習院の学部にいたときは、私はどう考えても不出来な人間だった。
私は自分で「回りからバカにされることが多い」と思っている人間である。それなので、私は他人と話をしているときは大体「こいつは俺の事をどの程度尊敬しているか」ということを推測している(もちろん相手を探りながら会話していることを相手に悟られないように用心して振舞っているが)。そして、「こいつは俺の事をバカにしているな」というようなことはばっちりと分かるつもりでいる。
私が持っている数少ない特殊能力として「他人からバカにされているとそれが分かる」ということがあげられる。
そんなわけで、昔から他人からあまり尊敬されない人間だったので、現在に至るまで「他人が自分の事をどの程度尊敬しているか」ということに私は人一倍敏感である。
私の個人的な基準からすると、最近になってあまり他人からバカにされなくなってきてびっくりしている。学習院のマスターの二年くらいからなんとなく勉強が分かるようになってきて、それで私は自分に自信を持つようになってきた。そしてそのあたりから他人のことが大分どうでも良くなってきた。「俺の事をバカにしたけりゃ勝手にしてろよ」と本気で思うようになったので、最近の私は他人の評判なんてもうどうでも良くなった。他人の中での評価を上げるような行動をとろうなんて、ほとんど考えないで動けるようになった。他人から嫌われても、バカにされても、全然いいやって思えるようになったのだ。
北海道大学のドクターコースに進学することになったとき、周りの人は大体驚いていた。たしかに自分でも驚くようなことではあったけれども、周りの人がびっくりしているのを見ていて、それは「お前が北海道大学のドクターコースに進学するなんて想像できなかった」というようなこと、もうちょっと悪く言えば「お前みたいな阿呆な人間が北海道大学のドクターコースになんて進学できるはずがない、のに進学したからびっくりしている」という意味あいが、少なからず含まれているような気がして「ふーん」と思ったことが何回かある。そう思われても仕方がないような人間ではあった。
高校のときの私や、あるいは学習院を卒業するまでの私を知っている人間からすれば、現在の私が北海道大学のドクターコースに進学していることが完全に想定外の事柄なのだ。多分間違いなく。
それゆえに、私は将来の予想というものをまったく信じていない。高校のときや、あるいは学習院を卒業する時点で「それなりに大きな学校のドクターコースに進みたい」というような進路希望を誰かに相談したとしたら「お前の頭じゃ無理だから他の進路にしろ」と、もっと「現実的な」アドバイスを受けただろうからだ。
学習院の三年の終わりに、必修単位を4つ落として進級がぎりぎりだった(あとひとつ落としたら留年だった)。あの時は胃が痛くて精神的にやばかった。そして4年の終わりに、必修単位がどうしても取れなくて、卒業式の後に行われた3月下旬の追試験を受けてやっと3/31に卒業の免状を受け取ったのだ。それなので、私は大学の卒業式は「必修単位を落として卒業できるか分からない」という理由で出席できなかった(別に出席したかったわけではなかったが)。
今でも覚えているが、理学部の物理学科が学年で40人くらいいる中で、追試を受けていたのが私を含めて3人か4人だった。それを見たときに「俺はこの学年で下から数えて4番手以内にいるのか」ということを漠然と思った。そのときのインパクトが強いので、私は今でも「俺はテールエンダー(最後尾集団)を走っているんだ」と思っている。というより、もう最下位に居座ることに居直っていて、トップを取りたいとか思わなくなった。そう居直ったらなんだか楽しくなった。
新聞を読んでいて「優秀な学生を確保するために各大学が学生の争奪戦を繰り広げている」とか、そんな記事で「優秀な学生」とかいう単語を見るたびに「これは俺のことではないな」と心から思う。
日本学術振興会の研究員にもはしにもぼうにもかからずに落ちたが、ああいう「優秀な学生」向けの奨学金は俺には縁がない。私がやるべきことは、最後尾集団でありながらトップの連中と互角以上にやりあうこと。自分がトップに行くことじゃない。いるべき場所は最後尾で十分なのだ。
将来にどうするかということをそんなこんなでずっと考えないままできた。学校では卒業できるかが分からなかったので、卒業したあとに先のことは考えることにしていた。今でもその方針でいる。将来を考えても、多分当てにならないと思う。それに、現時点で予測可能な将来なんて、ひどくつまらないものだと思っている(高校を卒業した時点で、あるいは学習院の学部を卒業する時点で将来を決めていたら、私は現在北海道大学にはいなかっただろう)学校を卒業する頃にはもっとレベルを上げて、その時点ではじめてどう動けばよいのかを考えればそれで十分だと思っている。
最近、「自分が北海道大学のドクターコースにいて、専門が航空宇宙工学で、燃焼学の勉強をしている…」というようなことを他人に話すと、話す相手はだいたいポカーンとした顔をして不思議そうに私を見つめてくる。私はそれが最近は面白い。どうやら向こうは、「こいつはなにかすごい事をしているのかもしれないが、なにがどうすごいのか良く分からない。なんだこりゃ???」という風に思っているらしいことが手に取るように分かるからだ。
少し前までは私は簡単にバカにされてきた。最近は「どうやらこいつは簡単にはバカにはできない」と相手が混乱している様子が見えるようになってきた。生きていれば、ちっとは状況は変わる。これから先がどうなるのかはさっぱりと分からないが、これまでもさっぱりと分からなかったし、それでも不都合はなかった。未来なんて、そもそも分かるはずがない。
20歳になったときに「これからは大人だ。だけど、これまでとなにが違うのだろう?」ということがひどく気になった。しばらく考えていて、「何も変えない。これまでと同じようにすごす」と、私はそう決めて動くことにした。
大学に入ったとき、精神的にいっぱいいっぱいであまりモノを考えている余裕がなかったが「大学生になったから…」といってそれまでと違う事をしようとは思わなかった。
基本的に私は環境とか、なにか境遇が変わっても「それまでと同じようにすごす」ということをやり続けてきた。北海道でもそういう風にやろうと思っている。別段ドクターコースにいるからどーたらこーたら、なんてことを思ったって仕方がないのだ。回りの学生の手本になろうとか思わないし、これまでよりもしっかりやろうとかも思わない。今までと同じように適当にやる、である。
私は昔から「俺は立川高校物理部の残党だ」と自分で思っているが、北海道大学の現在でも、私は高校の物理部の続きをしている気分でいる。少なくとも、私の精神年齢は高校を卒業した18歳の時からなんにもかわっていないと自分では思っている。そして今になっても高校の物理部の延長線上で勉強をしていていいじゃないかと思えてならない。
将来なんて、知らない。未来なんてそもそも分からない。現在を「これが私の全力全開(byリリカルなのは)」で突っ走るしかない。
幸いにして、最近は勉強が面白くなってきた。ここで気合を入れたらなにか勉強ですごいことが出来るかもしれない。そう思ったら、なんだか俄然やる気が出てきたので、土日も平気で勉強をするとか、最近はごくごく普通にやるようになった。そしてそれが楽しくて仕方がない。こんな風な精神状態になるんだということが、本当に面白くって仕方がない。
とにかく、他人なんて気にしないで、自分自身で「良し」と思えるような事をやってみたい。というか、他人がなにを言おうとも、自分で自分の事を良しと思えたらそれで十分じゃないかと思っている。
他人の評価なんて無視する。大切なのは自分の評価である。
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- 2008/01/25
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コメント一覧
うーん、
凄くシンプルに言えば、中谷さんが”大人”になったということですかね。
というよりも、大人だからどうだとか、子供だからどうだとか、そういうことがどうでもいいやと思うようになった点が、大人になったということなのかもしれない、と思うようになってきたところです。
我ながら興味深い心境の変化です。
かんばれ!俺も立川高校物理部出身。部代表。コツさんの時代の。