2009-01-06(Tue) 22:07:57
親戚の家に行くときにふっと思った。俺のものの考え方の特徴は「物事を前向きに捉えること」であり、それは少し珍しい考え方である。
俺は運動が苦手で勉強も苦手である。学習院にいたときはたかだか試験が不出来な程度で教員から徹底的に否定されていた。教員は「君はダメだ」という意味のことを繰り返していう。私としては、それを受け入れたらその時点で精神的に死ぬので「教員は否定するが、俺はそれほど悪くはないと俺自身は思う」ことにしていた。教員の否定に対抗するために、俺は俺自身で自分の良いところを必死に探す作業をし続けていた。その結果として、俺は物事の良いところを探す能力が身についた。 物事をポジティブに捉える能力というのは俺が自分自身を誉めるために開発した能力である。ただ、それを他の対象にも応用してあらゆる事柄をポジティブに見てしまうように俺はなってしまった。 だから俺は他人と話しをしていても物事をポジティブに解釈して話しをする。何人かの人はそんな俺を見てびっくりしている。俺は自分が良いと思ったら「あなたはすごく素敵で素晴らしい人だ!」と時々相手を徹底的に誉めることがある。すると相手は大抵ぽかんとしているありさまだ。俺は、俺の考え方は普通だと思っていたが、よく考えてみれば、確かに俺の周りで俺のように物事をひたすらポジティブに捉えたり、他人のことをやたらに誉めたりする人間は少ない。 むしろ、学習院で俺のことを徹底してバカにしていた教員のように、他人の些細な欠点を指摘して他人を否定する人間がやたらに多いのではないかと、最近は思うようになった。 他人の悪いところを注目するか、他人の良いところに注目するか、それは個人個人の趣味の問題だろうか。他人を見下して馬鹿にするのも、それはそれで精神的に楽しい事柄だろうというのは理解できる。ただ、これには弱点がある。他人の否定ばかりしていると、自分のことも否定してしまって自分を肯定する能力が下がる。 むしろ、他人の良いところを探すことを続けていたならば自分の良いところも見つけられて自分を肯定できるようになる。それがたとえ些細なことであったとしてもだ。こじつけでも何でも自分を肯定できることによる精神的な安定感は大きな武器になるのではないか。そしてそれは少ししかないチャンスを見つける能力にもつながるはずだ。 そういうことを考えていくと、意図的に「物事をあえてポジティブに考えてみる」ということは私の個人的な趣味というより戦術的にも有効なのではないかと思うようになってきた。 俺は自分を誉める能力を拡張して他人を誉めることをするようになった。同じように、物理学を勉強していく中で学んだ「物事を突き詰めて、論理的・体系的に考える」能力も他の事柄、人間関係から社会現象から経済現象から小説の読み方から、いろいろなことに応用するようになった。それなので、今の俺は世界を物理学の方法論で見ていると思う。 これも最近思うのだが、自然科学を勉強している人間の中でも科学で使う論理性を使って物事を考える人は実は少ないのではないかと思う。科学を勉強している人と話をすることがあるが、それでも「科学を勉強しているのに考え方があまり論理的じゃないな」と思う人に時々会う。 ありとあらゆることを論理的・体系的に考えることが果たしてどこまで有効かという点は問題だが、ただ俺自身は物理学を勉強していて一番役に立っていることはこの「論理的にありとあらゆることを考えるものの考え方」それを身につけることが出来た点ではないかと思う。これだけは一生モノの財産ではないかと、そう思うようになってきている。 昨年の末に北大でやっていた雨宮処凛の講演会で少し聞いたことだが、我々は「限定された肯定」しか得ていないのではないかという話が妙に気になっている。 俺がこの前に親戚のおじさんの家に挨拶に出かけるとおじさんは俺のことをそれなりに評価してくれているようだった。ただ良く聞いてみると俺を評価してくれているのは「学習院を出ているから」という点を根拠にしているらしいと気づいて俺は不思議に思った。 …俺が学習院で勉強をしていたのは、受験して合格した学校が単純にそこだけだったからで特別の理由はないのである。そして、俺が学習院にいたことは卑下することではないが別に自慢するようなことでもない。ただ、俺のおじさんは学習院を妙に過剰評価してくれるので俺は多少戸惑っていた(俺のおじさんは学習院をやたらに評価する割りに北海道大学は大して評価しないという不思議な基準であった、神奈川から遠すぎるのがいけないのか?)。 今の俺は状況がとにかくまずい。この調子で行くと単なる失業者になるだろうなと思う。そういうことを思うと、「ナントカだからえらい」というような条件付の肯定ということが嫌になってくる。「なんでもないけど、それでもあなたには価値がある」という、「存在そのものを肯定する」というありかたではいけないのだろうか? この雨宮処凛の主張を俺も思うようになってきた。だから俺は今年の最大の目標を「何もしなくてもいいからとにかく生きていること」におきたいと思う。俺自身はとにかく存在そのものに価値をおきたい。そして存在することだけは大切だと思う。状況がデタラメに悪くても、たとえただの失業者になるにせよ、ただ、存在していることには価値があると思う。ついでに、元気で健康で生きていることが出来ていたらもうそれだけで人生に○をつけても良いのではないか。今はそういうことを思っている。 まあ、やれるだけ状況を好転させるようには動いてみるつもりですが。 上に書いたようなことを最近は考えている。仕事が見つからないことも、精神的にあまり愉快な事柄ではないが物事を考えるきっかけにはなると思う。むしろ物事を考えざるを得ない状況に追い込んでくれると考えるならば、状況が悪いこともむしろ精神的に成長するためのチャンスではないかと、そう考えることも出来るだろう。少なくとも俺自身は前よりも少し小説を深く読めるようになってきたと思っている。この状況でなければ夏目漱石の「それから」をここまで感情移入して読めなかっただろうし、先日読んだドイツの作家エーリヒ・ケストナーの伝記も意味をつかんで読むことは出来なかっただろう。 経験をつめば本や漫画やアニメをもっと深く読めるようになるだろう。それだけでも長生きするだけの価値はあるんじゃないかと思う。
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